虐待における暴力は究極に歪んだ「甘え」の形態だと感じる

私は、家庭内で起こる虐待は、一般の暴力と同じ形を取りながらも全く違う性質を持っていると感じています。
統計がどうこう、といった客観的事実からの推測ではなく、当事者として感じてきたことです。

通常の暴力は「排除」の行為

一般に、暴力は気に入らない人や物事を「排除」しようとする行動です。
たとえば、友人が気に入らないことをしても、普通は殴らない。
思い余って殴ることはあるでしょうが、殴る時にはその人との関係が終了することまで覚悟しなければならない。

家庭内で起こる暴力の中でも、「母親の恋人」や「継父」の振るう暴力は、例外的にこの一般的な「排除」するための暴力を振るうことも多いのではないかと思います。
動物の世界でも自分との子を育てさせるために別のオスの子を殺すようなことは行われているそうですから。

虐待する親の心理は、子供の駄々に近い

一方で、たとえば2,3歳の子がダダをこねて道端に座り込み、
無理矢理歩かせようとした母親を「お母さん嫌い」と叫んで叩く。
幼子は、母が気に入らないから暴力で排除しようとしているわけじゃない。
罵って叩いても、その母親が怒って自分を見捨てて去っていくとは思っていないしそれを望んでもいない。

幼子が、母親は自分を見捨てて去っていくかもしれないと感じている場合には、幼子は親を罵ったり叩いたりはしません。
先に殺されてしまった子も、皆がくつろぐ家の中で一人じっと正座をさせられていたそうですが、本気で親に見捨てられると感じている子は、悲しい位健気に親に従います。

つまり幼子が親にふるう「暴力」はある意味、究極に歪んだ「甘え」の形態だと思うのです。

親が子にふるう暴力も、この幼子の行う暴力に近いと、私は感じています。
「どうしてちゃんとしてくれないの」
「どうして100点を取って自慢の子でいてくれないの」
果てには、散々殴って嫌われておきながら
「どうして懐いてくれないの」
と、未熟な親は子が親の期待通りにならないことに「駄々をこねて」暴れる。
時には、外でのストレスを子供にたたきつける。「聞いてよ、辛いことがあったんだ」と言えればいいのに、言えないからただ暴力を振るうことで一時の精神の解放感と万能感を得る。

通常の親子の役割が、逆転している。
親は、殴る時には子を疎ましいと感じてはいるでしょうが、殴ることで家を出てもう二度と会えなくなるとは思っていない。

歪んだ甘えからくる暴力がなお深刻に子をむしばむ理由

暴力は、暴力です。どちらだから許されるということはあり得ない。
特に虐待は、経済的にも肉体的にも圧倒的な力を持つ側の親が、法的に対抗することすらできない子に向かう暴力ですから、理由がどうあれ絶対に許されない。

暴力が、単に排除のための暴力であるとき、ある意味話はシンプルです。
引き離せばいい。
暴力を振るう側もそれを望んでいるのですから、引き離せば、終了。

暴力が歪んだ甘えの形態である場合は、親類や児童相談所などが引き離しても、親の側は「甘えの対象」たる被虐児を失うことを望んでいないので、必死に取り返しにきたりする。
また、子も子で親が振るってきた暴力が親の歪んだ「甘え」であることもわかっているし、自分を殴ることでしか自我を保てない親の未熟さ不安定さにも気付いているので、戻れば殴られると分かっていても親元に戻ろうとしてしまったりする。

以上はあくまで、一当事者が感じたことです。
全部の虐待家庭がそうかはわかりません。裏付けはありません。

ただ、私もそう感じてきたし、他の被虐者の家庭で起こっていたことも歪んだ甘えであったと考えると、虐待されているにも関わらず親元から引き離されることを嫌がる子が多いこと、成人してからも親が嫌いと愚痴りながら・ストレスをためながらも延々同居を続けたり頻繁に電話したりと、何故か健全な家に育った人よりベッタリした親子関係を継続するアダルトチャイルドが多いことも、少し説明が出来る気がするのです。

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