「家族の責任」が重くなりすぎない社会を望む

認知症男性JR事故死 「家族に責任なし」監督義務を限定

認知症の高齢者が列車にはねられ、家族がその監督責任・賠償責任を問われた裁判。
「家族には監督責任が無い」とまでは言わないながら、今回は家族に賠償責任はないとの判決が出た。

認知症の患者と同居していることや、家族であるという理由だけで無限の監督責任を負うものではないとの、判決が出た。

少し、安堵した。

重すぎる監督責任は家族を破壊する

確かに、認知症等、問題行動を起こすかもしれない人を放置して何かが起きた場合に、だれが責任を取るのかという問題は残る。
「相手が認知症なら、被害者は泣き寝入り」だと、それはそれで困ったことになる。

でも、家族に監督責任・連帯責任を厳しく課せば、それは家族を破壊し、「健康でない人間」の居場所を奪う。

同居して介護する。
それだけで大変なことだ。
仕事も辞め、結婚も出来ずに家族の介護に明け暮れ、家族を見送った頃には介護者自身が高齢・独身・無職で自分の生活や老後のめどが立たないと途方に暮れる、という哀しい事例もあるし、そこまでいかなくても介護は生活を破壊する。

生活を犠牲にして介護を引き受けた人に、厳しい「監督義務」までがもれなくついてくるとなれば、介護をしようと考える人はいなくなる。

同居をもって監督責任が生じるなら、一人で生きていくことが困難な人ほど家から放り出されることになる。

そりゃそうだ。やってられない。
認知症で寝たきりならともかく、認知症でも身体は健康な人も多い。健康な身体を持った大人を、家族といえど常時監視していられない。
かといって勝手に出歩かないようにと拘束すればそれはそれで問題になる。
介護施設であれば患者の居住エリアに外から施錠することは出来るだろうが、一般の家屋はそのような構造になっていない。
なのにその家族がやらかしたことに対する賠償責任まで負うのであれば、責任が、重すぎる。

家族であるだけで責任が生じるのであれば、軽度の患者にも日常的に身体拘束を行うような悪質な施設が繁盛するという話になりかねない。

大事な人の重荷にしかなれない人生は耐え難い

「安堵」と書いたのは、私自身が健康でないために「家族を持つべきではない」と考え、今の社会ではそれがベストの選択と思いつつ、そんな社会であることを悲しく思っている人間のひとりだからだ。

私は、うつ病患者だ。かなり重度で、しかも長期にわたり治っていない。
多分、改善はあり得ても、一生この病から自由にはなれないだろう。

家族の互助を前提としたこの社会で、家族を持たずに生きていこうとすると、何かと困難に直面する。
病気であればなおさら心細い。
ままならない身体で日々の生活を回していくのは大変だし、日本は再就職しようにも入院しようにも、一々「保証人」「身元引受人」がいなければ難しいシステムになっているからだ。

家族を作ればその家族に迷惑がかかるから、家族を作るべきではないという結論に至ってしまう。

世間の目や監督責任

日本では、まずは「世間の目」が、家族単位となる。

独り身なら、私が病気であることへの周囲の偏見は、私一人が負えばいい。
家族がいたら、家族まで偏見の目を向けられる。

ただの目だけではなく、今回の判決で問われた「監督責任」も家族が負うのが「常識」だった。

独り身なら「しでかしたこと」の責任は、私一人が負えばいいが
家族がいたら家族にも累が及ぶことになる。

経済面の連帯性

日本では、経済的なことも家族で助け合うことになっている。

「家族で助け合う」のは美しいことだ。・・・自主的に、可能な範囲で行われる場合には、美しいことだ。
それが「義務」となれば、話は別だ。

病んで働けない人間、莫大な医療費がかかる人間が家族の構成員にいれば、家族がフォローするのが当然とみなされ、家族ごと経済的に困窮することになる。

生活保護も、世帯単位で審査されることになる。
その人が独り身であればその人が困窮した時点で保護が降りる。
家族がいれば、家族は健康で真面目に働いていても、その収入を病人につぎ込み、家も資産もすべて売り払い、病気の構成員もろとも生活保護レベルに陥るまで、保護はされない。

障害年金の額も家族の互助が前提

うつ病も、重くなれば障害年金の対象になる。
しかし、障害基礎年金の場合、うつ病だと重くても1級にはならないといわれており、3級以下だと年金が支給されないので事実上「2級」が障害年金のすべてとなる。

その2級に認定されても、月7万程度の額しか受給できない。

2級というのは「日常生活にも制約のある」状態が該当する。
2級該当者は概ね、無職であるか、リハビリ的にごくごく限定的に働いているだけで、自活は出来ないレベルの収入しかない。
日常生活に支障があるので、健康な主婦のように日々チラシをチェックして底値で食材を買い回ることは出来ないし、自炊も困難だったりするから生活費はかさむ。

働けない一方で通院が必要であったり、障害ゆえに日常生活を営む上でも何かと出費がかさむ状態の人に、月7万程度しか支給されない。

独り身であれば、年金では生活していけない人にはヘルパーも派遣されるし生活保護もおりるだろうが

家族がいれば「生活は家族が面倒見てね」で終わりだし、家族ごと生活保護レベルに陥るまで生活保護はおりないので、事実上、生活の困難も生活費の不足も家族が補うしかない状況になる。

個人単位で生きていける社会を切望する

病気の人間と生活をともにすることは大変だと思う。
大変だが「病気で働けなくても、気が合う人であれば、ともに暮らしたいと望む人」までは、全くいないわけではないと感じてもきた。

けれど、相手の病気から来るデメリットを・・・偏見から経済面までを「丸抱え」するとなると、話は別だ。

私は、自分が家族にまでなりたいと思った相手が、私のデメリットを「連帯責任」として丸抱えすることになり、健康な人と結婚していれば普通の経済レベルと普通の生活を送れたであろう人を様々な困難に巻き込むことは、耐え難い。

自分が家族にまでなりたいと思った相手から
「コイツがいなければ・コイツが病気でさえなければ、もっといい暮らしができたのに」「コイツに人生を奪われた」と思われることは、耐えがたい。

「福祉の財源は、無尽蔵ではない」のは分かる。
けれど、家族に負担を負わせすぎる結果、家族を構成することを妨げるのであれば、結果的に福祉の負担は減らない、当事者たちもアンハッピーとなり、誰も幸せになれない。

「家族であっても、構成員の全部を丸抱えしなくてもいいです。
愛や情をもって助け合いたい部分・助け合える部分だけは助け合いますけどね」

それ位で許される社会であれば「健康でないから家族は持たない」などという哀しい決断をしなくていいのにと思いつつ
「今・この社会においては健康でない自分は独りで細々と生きて独りで死んでいくのがベストなのだろう」という結論に至ってしまった人間の一人として

今回の判決には、少し安堵した。

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